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2020年05月13日

  

免疫

ワクチンというと、「病原体の抗原を接種して抗体をつくっておくと、その抗体が本物の病原体が感染するのを予防してくれる」という話が広く定着しています。 これはほぼ間違いです。

 

ジェンナー氏が人類最初のワクチンである種痘を開発したという美談を学校で教えられた記憶がありますが、これもほとんど間違いです。種痘が開発されたのはジェンナー氏が亡くなられた後ですし、また数千年前から人痘というワクチンが使われてきました。ワクチンについてはそもそもどういうものなのかという基本的なところから事実ではない話が広まってしまっています。

 

ワクチンとは何か。本来ウイルス同士が互いの感染の妨害をするようにみえる「干渉作用」がワクチンの本質なのですが、そこに踏み込む前に思いこみの整理をしておく必要があります。

 

遺伝的にB細胞が成熟せずに抗体をつくれない人が生まれることがあります。こういう方は細菌感染に弱くなるのですが、ウイルス感染には特に影響がみられません。抗体を作ることができなくてもウイルス感染にはそれほど影響がでないのです。なお、細かく言うと真菌感染(水虫とかカンジダなど)にはあまり影響はでません。がんについても影響はみられません。

 

T細胞が遺伝的に成熟しない人も生まれてくることがあります。こういう方でも細菌感染にはあまり影響はでません。 ところがウイルス感染にはとても弱くなります。 真菌感染にも弱くなります。 がんにはあまり影響はでません。 ウイルス感染対応において重要なのは抗体ではなくて、T細胞ということです。

 

感染を予防する免疫がつく、というのは初めて遭遇する病原体に対しても作動する自然免疫がありますが、特定の病原体に感染したことによって成立する獲得免疫に関しては、特にウイルス感染症における獲得免疫は「抗体」という液性免疫によるものではなく、細胞傷害性T細胞(キラーTとかCTLといいます)がウイルス感染細胞を傷害する「細胞性免疫」によるものが主役です。抗体はむしろADE(抗体依存性感染増強)という重症化をもたらす危険があります。中和抗体がウイルスに結合することで、エンドサイトーシスという現象によりウイルスが細胞内に取り込まれてしまうのです。 中和抗体はただウイルスに結合しただけではウイルスを排除しません。中和抗体が結合していることで抗原ごと一緒に細胞内に取り込まれる、これが中和抗体の基本的な機能であり、相手がウイルスの場合はむしろわざわざ細胞の中に入れ込んでしまうという「余計なことをしてしまう」側面もあるのです。

 

ちなみにNK細胞が遺伝的に成熟しない人も生まれてきて、がんになりやすいのかというと、NK細胞が成熟しない人は生まれてきません。遺伝病としてNK細胞が成熟しない因子をもった胎児はいると考えられていますが、残念ながら誕生の日まで生き永らえ、生まれてくることはありません。マウスやラットの実験でもT細胞やB細胞が成熟しないものは人為的につくることができますが、NK細胞が成熟しないマウスもラットも生まれてきません。流産すると考えられています。NK細胞は生きていくのに必須の細胞なのです。T細胞やB細胞はなくても生きることは可能です。人間で実験はできませんが、通常の状態で生まれたマウスのNK細胞を生後、薬物で概ね排除してもウイルス感染や細菌感染にはそれほど大きな影響はでませんが、がん細胞が存在すると全身あっという間に腫瘍だらけになります。 様々な免疫細胞がいますが、概ね主な役割というものがあります。B細胞つまり抗体は細菌感染、T細胞はウイルス感染、NK細胞はがん退治に主役級の役割がある、ということです。

 

ということで本題に入る前にまず抗体がウイルスを防ぐのではないことを押さえておいてください。抗体を作れない人でもウイルス感染に対する抵抗力は抗体を作れる人と変わらないのですから。 また植物にもワクチンを使えることがあります。当然、植物には抗体はありません。 メロンがTМV(タバコモザイクウイルス)に感染すると網目がむちゃくちゃに乱れることがあります。昔はそういうメロンが安く売られていました。その後、弱毒化したタバコモザイクウイルスをメロンの苗に感染させることで強毒性のタバコモザイクウイルス感染を予防する「生ワクチン」が開発され、今日では網目のキレイなメロンしか見かけなくなりました。 もっとも植物には抗体がないだけではなく、T細胞も存在しません。このメロンのケースでは弱毒化されたTМVに感染し続けることで野生の強毒性のTМVの感染に干渉することでワクチン効果が発揮される「ウイする相互間の干渉作用」が効いていると考えられています。基本はまず「干渉作用」。ただT細胞による細胞性獲得免疫もワクチン感染予防に寄与することがある。さらに液性および細胞性の自然免疫などなど、いくつもの防御システムが存在し、ワクチンはこれらに複合的に作用するものです。

 

 

疫病というのは今日では複数の大陸にまたがって同時に流行する感染症とされていますが、このような捉え方をするようになったのはごく最近のことです。疫病という言葉は民族絶滅レベルの感染症大流行のことを言っていました。少なくとも人口の何割というレベルで人が死んで初めて疫病と呼ばれました。このブログを書いている時点での新型コロナウイルス感染による総人口に対する死亡率は0.0025%です。感染者の中での死亡率は全世界で7%と言われています。0.0025%というと直感的にピンとこないかもしれませんが、人口10万人の内2.5人が亡くなられたということになります。 欧州で繰り返されたペストの大流行は人口10万人当たり3万人とか6万人が亡くなられ、それよりも天然痘の大流行はさらに猛威をふるったのでしょうが、人口の大半が「消えた」こともあり正確な記録が残りません。日本の天然痘大流行の記録も庶民の数字はわからないのですが平城京出仕者の名簿によると死亡率8割です。これは全出仕者の8割が天然痘で落命したという意味です。感染者の8割という意味ではありません。新型コロナウイルスの感染者の何%が死亡した、という話とは次元が完全に違うのです。 栄耀栄華を誇り始めた藤原氏の首謀者「藤原四兄弟」も全員天然痘で死亡しています。 他にも梅毒の大流行で人口の何割が亡くなった等など、民族絶滅レベルの大流行が何度もあったようですので、今回の新型コロナウイルスは今の状態だと人類の疫病史には全く存在しないレベルなのです。 もっとも古代の疫病は全世界レベルに猛威をふるったことはないようです。 特定民族、地域あるいは広くて大陸の何割か、というレベルのようです。 さて、古代に実際に絶滅した民族がいくつもいるようなのですが、私たちはこの疫病で絶滅しました、と書き記した絶滅紀は残っているわけありませんので、各民族の最期は正確にはわかりません。 天然痘にかかって生き延びた人は二度と感染しないことは古代からわかっていたようです。また、流行に勢いがついてくると手がつけられず、死亡リスクも跳ね上がること、まだそれほど勢いがついていない段階で、元気な時に無理やり感染した場合は生き延びられる可能性が高いと考えられていたようです。そこで元気なうちに、そしてまだ天然痘に勢いがつく前に腕などに刃物で傷をつけ天然痘にかかった人の膿をすりこみました。 これを人痘(じんとう)といいます。 古代は族長を中心とする同族集団が基本で、個人の価値は同族集団の維持発展に貢献するかどうかであり、個人個人の名前さえも曖昧であり、あくまでその同族集団の血統を絶やさないことが重要でした。 全体救済といいますが、個人個人の人格どころか命もそれほど重く考えられることはなく、一族の血を残すことが何よりも優先されていました。時代劇などで「御家のためだ、死んでくれ」等というセリフを聞いた現代人は昔はまあとんでもないことをと思うわけですが、生物界全体を見渡すと圧倒的に種の保存、全体救済であり、個々の個体の命は種の存続の前にはほとんど無視されているように見えます。 ということで人痘によって族長やその濃い血縁者100人ほどが天然痘にかかり、たとえ9割の人が死んだとしても、10人が生き延びて、二度と天然痘に感染しなくなったら、それで次の世代に一族の血を伝えることができるのでとても喜ばしいことだったのです。現代は個人主義ですから、個人ひとりひとりの命が大事です。当たり前だろ、と思われるでしょうが、永い永い人類史の中で、個人の命が大事というのはせいぜい、この200年くらい? ではないでしょうか。現代の小学校で「生徒のみなさんに人痘を施します、9割の人は程なく死んでしまいますが1割の人は一度ものすごく苦しむだけで、生き延びることができ、その後は生涯、二度目の天然痘にかかることなく、次世代へ子孫を残せます~~」 まあ、今ならあり得ない話ですが、つい「こないだ」まで、それが当たり前の感覚だったのです。

 

そして疫病の親玉である天然痘に一度かかってしまい、苦しみながらも生き延びたら生涯二度と天然痘にはからかない。 これを「疫病を免れる」=「免疫」といい、「疫病を免れる能力を獲得」ということで「獲得免疫」という後天的な免疫の概念が定着します。

 

全体救済とか個人救済というと、何やら宗教みたいな話ですが、それとワクチンどう関係あるのでしょうか。実は大有りなのです。 旧約聖書をはじめ古代、人類は個人個人の命の価値に無関心だったと考えられています。 旧約聖書の時代はまだ神様も妥協され羊を代わりに生贄にするのでOKとなっていましたが、さらに前の時代ともなると自らすすんで生贄となるのが当たり前でしたので、ワクチンをうって自分が感染症で死なないようにする、という発想はそもそも生まれてくるはずありません。当時の人々にとっては人痘という接種した人の多くが接種したことによって程なく死んでしまうものの、生き残った何人かは二度と天然痘に感染することなく、民族絶滅を回避して後世に代々、血統を紡いでいく、これが「正しい」ワクチンだったのです。 個人救済というのはゾロアスター教徒と妥協したイスラム教にも少し概念として入っていますし、日本に伝わった仏教は自分が死んだあと、どうなるの、自分の魂は救済されるの、という個人救済の塊です。いつから、というのは文化や地域によっても、また王族と庶民とか身分によってもまるで違うため一概には言えませんが、少なくとも200年ぐらい前には概ね個人救済一色に近い状況になっていたようです。こうなると人痘は成立しません。 「接種した人の多くが程なく接種によって死んでしまう」 これが受け容れられるわけありません。 現代では100万人にワクチンを接種して数人が40度の高熱を出すとこれはもう事故扱いですし、もし副反応やワクチンそのものがもつ病原性によって死亡者や生涯ひきづる障害が一人でも二人でもでようものなら、そのワクチンは反対運動の猛攻を受け、接種中止になるか、少なくとも強く推奨されなくなります。 ワクチン反対派はワクチンの安全性の問題ばかりに拘泥します。 効果と安全性(危険性というべきですが)のバランスという議論になかなかなっていかないのが実情です。 ワクチンに対して求められるものが「一部の者でも生き残れば」から、「できれば全員、無事に」かつ「しんどい思いをせずに」というものへとほとんど180度ひっくり返ったのです。 簡単にいうと、全体救済ワクチンはわずかでも効果があればどんなに危険でもOK、個人救済ワクチンはとにかくまず安全であることが第一、効果はその次というくらい違うのです。

 

新型コロナウイルス対策として人痘クラスの危険なワクチンを全世界の人にうつと言ったら世界同時に暴動となるでしょう。 ところがもし今、天然痘やヒト・ヒト感染する高病原性インフルエンザが発生し、もし死亡率が「何割」、そしてそれは感染者の何割だけですまず、世界総人口の何割が死亡というレベルに感染拡大する、だったらどうでしょうか。 それでも人痘クラスのワクチンが認められることはないでしょう。 接種した行為によって直ちに発生する害がない、ここは個人救済の世界においては譲れないポイントです。 では人類が絶滅してもいいのか? それは考えないのが個人救済社会の特徴です。簡単に言うと自分のことや回りの人々くらいのことしか考えていない、環境問題大事ですよね、と口にはするものの、では真剣に考え、そして行動しているかというと何もしていない、新型コロナウイルスで大騒ぎしていますが、天然痘がきたらどうするのか、と言われても天然痘? ピンとこない、世界経済全体の分析よりも10万円いつくるのか。。。 こういうのは個人救済社会ならではの傾向です。

 

 

そして種痘よりも少し前に個人救済型ワクチンが登場することになります。ジェンナー氏が開発した牛痘です。 ジェンナー氏が開発したのはその通りなのでしょうが、数千年も前から人痘があったわけですから、偉大な発明家が登場したというより、社会的状況が個人救済色を強めたため新しい時代にあった技術にスポットライトが当たったという見方もできます。 

 

 

ジェンナー氏の身の回りにも乳牛がおり、乳しぼりは少女の仕事でした。現代では考えられないことですが当時のヨーロッパでは、子供は「人間ではない」と考えられていた、、、 というのですが、どう理解していいのか私はわかりません。ただ状況としてはそうだったんだな、と考えざるを得ない話に満ちています。上流階級の令嬢ご子息でない限り、子供は労働力でした。坑道内で石炭を掘ったり運んだり、そしてあまりに過酷な煤塵を吸い込む環境で肺がやられたり坑道が落盤で塞がり生き埋めになる役割は男の子、乳搾りは女の子と仕事によってどちらがやるかも決まっていました。 乳搾りの少女が時折、牛の病気である牛痘を発症することがありましたが、牛痘にかかった少女は天然痘になりにくいと考えられていました。 

 

ジェンナー氏はまず召使の子供に牛痘を接種し牛痘を発症すること、後に天然痘を接種しても感染しないことを確認しました。 学校では自身の子供を使って実験したと美談の如く書かれていましたが実験台にしたのは使用人の子供です。国際貿易の最大の主力商品が「奴隷」だった時代ですから使用人にはまともな人権はなく、かといってむやみに殺害すると犯罪になる可能性はありましたが、使用人の子供となると実験に使ったとして何ら非難はされなかったのです

 

最初の「実験」がうまくいき、次に村の子供たちを半分ずつに分け、一方には牛痘を接種し、他方には何もしませんでした。今回は自分の子供を接種組に入れます。接種組は天然痘にかからず、接種しなかったグループは天然痘に感染し、およそ半数が死亡します。これだけみれば実験としては牛痘の有効性を証明したように見えます。ところが、その後、世界各地で牛痘が実施されるようになると、主に3つの問題が立ちはだかりました。

 

(1)あまりにも重い副作用が頻発。

(2)全く効果がみられないことが多かった。

(3)結局、牛痘を接種しない方が平均すれば健康で長生きできた。

 

(3)の問題はワクチンの存在理由自体が問われる根本的な問題ですが、この問題は牛痘を接種した子供としなかった子供の生涯を追跡して初めて明らかになるものであり、当座は(1)接種後の副作用がまず槍玉にあがりました。

 

(1)の副作用問題は、牛痘の膿という訳のわからないものが混在するものを使ったからと考えられ、実際そうだと思いますが、牛痘を接種した子供のリンパ液を接種に用いるようになりました。子供のリンパ液を用いるとはどうやるのかはここには書きません。副作用は激減したと言われていますが。日本でも江戸時代から盛んに牛痘を輸入して接種しようとした大名家がいくつもあり、実際に実施されたケースも多いのですが、牛痘を接種した「子供」を輸入してその子供のリンパ液を用いたケースもありました。 ちょっと考えられない話ですが、日本でも七五三というのは、よくこの歳になるまで生きていたねえ、ということを祝うもので、大人になるまで生き延びる子供は半分以下という時も珍しくなかった時代であり、あらゆる意味で現代とは物事の捉え方が異なるという面もあります。

 

(2)の問題は、ジェンナー氏が開発した牛痘が種痘に置き換えられ、この世から消えることにつながりました。牛痘を発症するウイルスに天然痘を防止する効果はなかったのです。たまたま別のウイルスが混在していた時だけ感染予防効果を発揮していたのでした。ワクチ二アウイルスという謎の巨大ウイルスなのですが、このウイルスは人間の免疫系を制御する遺伝子を多数もっており、人間の体内でほぼ生涯、安定的に活動を持続することができます。そしてワクチニアウイルスが体内で活動し続ける限り、天然痘を発症する痘瘡ウイルスに感染しないのです。正にワクチンの名の由来になったウイルスです。このウイルスをまず牛の体側に何本も刃物で筋を切り込んでその傷に刷り込んで感染させます。回収作業は残酷かつ大変な労力なのですが、牛の生皮を剥ぎ、皮のすぐ内側の組織を「指」でこそぎ取ります。こうして回収したワクチニアウイルスを含むエキスを種痘として接種します。同じ手法で製造されたエキスが、後に牛からウサギへと用いる動物がかわりますが、ノイロトロピンという医薬品として日本や米国で政府承認を取得しており、エキスそのものにも薬効があるのですが、種痘としての感染防止効果はワクチニアウイルスによってもたらされるものと考えられています。

 

人痘の場合、天然痘を発症する痘瘡ウイルスに一度感染したから「免疫」を獲得し、生涯、天然痘にかからないんだ、という風にも見えてしまいます。一方、ワクチニアウイルス、種痘がなぜ実際に感染防止効果を発揮するのかを考えれば、そのような単純な原理ではないことが明らかです。ワクチニアウイルスへの感染を持続している限り、痘瘡ウイルスには感染せず、天然痘を発症しない。この場合、ワクチニアウイルスと痘瘡ウイルスは別の種類のウイルスです。ワクチニアウイルスへの感染持続中は、血液中にワクチニアウイルスに結合する中和抗体が誘導されていますが、この状態でワクチニアウイルスは無事なのです。抗体がウイルスを排除しているのではないということです。そして種類が異なる痘瘡ウイルスへの感染に「干渉」しているのです。どういうメカニズムかということについては大論争が起こるのですが、ともかく現象としてはあるウイルスに感染すれば、他のウイルスに感染しない「干渉作用」は厳に実在しており、今日においても様々な生ワクチンに利用されています。一方、あるタイプの生ワクチンを接種する、つまり弱毒化されたウイルスに意図的に感染すると、他のかなり種類が異なるウイルスの感染にも干渉します。あまりに種類が異なるウイルス同士の場合は短期間しか干渉作用が持続せず、ワクチニアウイルスが痘瘡ウイルスの感染にほぼ生涯干渉するというのはむしろ例外的です。ММRのような三種混合ワクチンなどは、同時に接種しないと互いに干渉しあうので、一つ弱毒ウイルスを生ワクチンとして単独接種するともう翌日には干渉作用が発動され、他の生ワクチン、つまり種類が異なるウイルスの弱毒株を接種すると、いきなし直前に接種されたウイルスによる干渉作用を受けてしまい、後から接種された弱毒ウイルスは直ちに体内から排除されてワクチンとして機能しなくなるのです。ならばと干渉作用が発動される時間を与えないように同時に混合接種すれば、すべてがワクチンとして機能します。ワクチンうったら免疫がつく、抗体ができて本物のウイルスがきても抗体が守ってくれるという「間違った常識」を頭から追い出さないと、このウイルス間の干渉作用という現象はなかなかイメージするのが難しいかもしれませんが、明らかに現象としては確認されているものです。そしてPCRがなかった時代にウイルスを検出する検査を大量実施するのはむつかしかったので、もっと簡単に検査できる抗体検査(ウイルス抗原をくっつけておいた羊の赤血球が凝集する反応が起これば赤血球同士をくっつけさせた抗体がある、そして目で見ても凝集反応が確認できます)を実施して、体内のワクチニアウイルスなど、危険なウイルスの感染に干渉してくれる毒性の弱いウイルスが無事活動していることを確認したのです。血中中和抗体価が高い=弱毒ウイルスは無事活動中=強毒性ウイルスの感染に干渉してくれる=つまりワクチン効果が持続している、ということなのです。これを長くやっているうちに、いつしか話が中抜きになり、血中中和抗体値が高い=ウイルスやっつける=ワクチン効果と思う人が増えてしまったのです。実際、日本のワクチンの効果判定基準が原則、「血中中和抗体の誘導と高値の維持」ですので、中和抗体の上昇とワクチン効果とがますます同一視されるようになってしまったのです。

 

抗体価を上げればいいんだ、じゃあ、弱毒株とはいえ実際にウイルスに強制感染させてしまう生ワクチンより安全なものとして、感染力を減らした(ゼロにはなっていないのが問題なのですが)不活化ワクチンや、さらにはたんぱく質だけを接種するもの、変わり種としてはワクチニアウイルスのゲノムに感染予防対象の別のウイルスのゲノムの一部を組み込んでおいて、遺伝子改変ワクチニアウイルスを接種するもの、最近ではウイルスのゲノムの一部をワクチンとして用いるものなど、様々な派生型が登場し、安全性を追求したことになっているのですが、有効性は急降下してしまいます。この問題は後に回し、その前に(3)の問題、ワクチンの本質的な問題について、まず実際に見られた現象を整理しておきます。

 

ジェンナー氏の牛痘実験に参加はしたものの、比較対象のために何もされなかった、牛痘を接種されなかった子供たちは多くが天然痘にかかり、その内、おおよそ半数が幼くして世を去ってしまいました。ところが苦しみながらも生き抜いた残りの子供たちは健康なまま長生きし、天寿を全うすることになります。一方、牛痘接種によって天然痘に感染する災難を当座回避してその時苦しまずにすんだ子供たちは、その後、病弱で慢性病にかかり、誰一人成人することなく結核などで命を落としたのです。

 

この問題は人はなぜ病気になるのかというより根源的な問題を孕んでおり、西洋医学を二分する「種か土壌」論争における争点の一つにもなるのですが、ワクチン反対派は、長期間観察すれば死亡率は下がらないどころか上がっているではないか、と主張します。ワクチン推進派は必ずしも死亡率低減に寄与しないことには鋭く反論しません。ワクチンをうってもうたなくても弱い子供は結局死んでしまい、強い子供は何してもしなくても生きているので、必ずしもワクチンによって救われる命が増えるようには見えない、ところが、天然痘のような感染症が疫病として大流行し、勢いをつけると手のつけられない猛威となることがある、そうならないように感染者から次の感染者へと感染が伝播する速度を落とすことで深刻な疫病化を防止するのが趣旨である、と接種した個々の一人ひとりの命ではなく、社会全体での損失を減らす効果、全体救済的な効果を主張し、両者、論点がずれているのでいくら議論しても決着することはなくずっと平行線のまま今日に至っています。

 

(つづく)

 

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