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2018年12月31日

  

えとせとら

戊辰戦争150年を偲んで

表に出始めた明治維新の真実 総集編

 

目次

 

「歴史小説」と「歴史」全く異なる明治維新

「一発逆転サヨナラ満塁弾」将軍様仰天の敵前逃亡

公文書偽造による討幕令、大嘘から始まった明治維新

京の都、大阪城、江戸城を無償で敵に渡した将軍様

討幕の英雄三傑、慶喜将軍、勝海舟、榎本武揚のその後

徳川家乗っ取り作戦、討幕派のリーダーを徳川将軍に

密貿易で荒稼ぎする島津家と使用人坂本龍馬

明治維新の金の出どころ~ 福井松平家

年表 明治維新の流れ 

(黒船 +2年) 長崎海軍伝習所に討幕派集結

(黒船 +5年) 安政の大獄はじまる 

(黒船 +6年) 討幕派拠点、長崎海軍伝習所閉鎖 

(黒船 +7年) 桜田門外の変 

(黒船+10年) 真打ち英東洋艦隊登場し薩英戦争、島津家領内の意志統一

(黒船+11年) 神戸海軍操練所開設 福井松平家大規模投資 討幕派の一大拠点

( 同 年  ) 卒業生らが禁門の変に参加、翌年操練所閉鎖、責任者の勝海舟罷免

( 同 年  ) 高杉晋作ら奇兵隊、外国船砲撃、馬関戦争により英軍が長州領一部占領

( 同 年  ) グラバーが英国留学させた伊藤博文・井上門多を英軍が長州へ送る

(黒船+13年) 第二次長州征伐 14代将軍・攘夷派の天皇急死 翌年解兵

(黒船+15年) 第15代将軍慶喜、島津軍陣地へ攻撃命令、鳥羽伏見の戦い勃発

 

 

 

「歴史小説」と「歴史」全く異なる明治維新

 

今年は戊辰戦争150年ということで山口県に縁深き首相をいただく官邸主導で「まあ過去のことは水に流しましょう」という趣旨のイベントが企画されていました。ところが会津を中心とする旧奥羽越列藩同盟側は「水に流せるようなものではない」とするムードが強く、むしろ「歴史」としての明治維新は、「歴史小説」の中で作られた英雄物語のイメージとは全く異なるという内容の出版や講演などが相次ぎました。

 

中には明治維新とは長州人テロリストによるこの国の乗っ取り行為であり同国人に対する人間とは思えない非道な残虐行為に満ちるとする主張もありますが、歴史上そうした面は事実としてあります。特に戊辰戦争時の会津城下は数百の亡骸が散乱し、多くが長州兵によって凌辱された婦女子が虐殺されたものでした。死体は放置されたまま「処理」してはならないとされたと伝わっていましたが、今年、地元研究者の調査で死体処理の記録が発見され、放置され続けたのではないと従来の通説を覆す証拠が提示されました。 戦争が終わっても、それ以上の悲劇が続きます。青森でも不毛とされる地に移封された旧会津藩領民は過半が飢餓や凍死で世を去ります。明治新政府は各地で圧政を行い反乱する農民らを徹底して弾圧します。これを150年経ったから水に流しましょうというのですから歴史的事実を訴える人々が声を大きくし始めたのです。

外国の侵略から日本を守る、外国勢力を背後につけた同朋から自分たちを守る、その中心が会津です。京の都に荒れ狂った無差別テロ。狙われたのは幕府要職にある侍ばかりではありません。手当たり次第に特に抵抗できない女性は狙われ今日のISやタリバンと変わらない非道な暴力が吹き荒れていました。京の都を夜な夜な騒がせた有名な人斬り○○と名前がよく知られているのは多くが薩摩人ですが、戊辰戦争の際に会津で暴れたのは長州人が中心でした。 京都の警察業務と非常時には軍の全権を掌握する京都守護代の任を請けた会津は外国勢力から資金を得て活動するテロリストの取締りに精を出します。薩摩人とか長州人といっても、島津家や毛利家との主従関係を切り、固定収入を無くしたはずの人たちが活動し続けたのです。 背後の資金提供者が黒幕です。 「歴史小説」では会津・桑名の兵や京都守護代会津松平家の直属である新撰組や見回り組は何かものすごく反動的な歴史の流れに竿を刺す問題の塊のようにも描かれますが、歴史的には彼らは正々堂々とした警察であり、非常時治安維持の正規軍であり、彼らが戦っていた薩摩人や長州人は無差別テロを繰り返す犯罪者だったのです。 これが歴史的事実です。 NHKの大河ドラマでやっと会津松平家からみた維新が取り上げられ、随分と会津側への誤解が解けたことは大きな前進だったと考えます。 禁門の変においては長州人武装集団が口では尊王攘夷と言いながら日本史上前代未聞の皇居に砲弾を撃ち込む暴挙に及んだのに対し、宮廷を護り抜いたのが会津兵です。 これも動かしようのない歴史的事実です。 今でも蛤御門には当時の銃砲撃の跡が残っていますが、私たち日本人にとって大切な存在である天皇のいらっしゃる御所に向かって砲撃したのです。 それも尊王のスローガンを掲げながらです。 歴史の事実としては維新の志士と呼ばれる人々がどうやって収入もないはずなのに活動資金を得たのか、誰が何の目的で金を出したのか、そこが大きなポイントなのですが、この点もISやタリバンと同じです。あれだけの軍隊が兵員募集、訓練、戦闘員への給与の支払い、兵器や弾薬、燃料、食料の調達と最低でも数兆円かそれ以上ともいわれる資金をどこが何のために出したのでしょうか。狂信的なテロリスト集団が集まっただけで、あのような軍隊は動かせません。 お金のでどころを読むのは要ですが、明治維新において、心情的には皇居砲撃をどう弁解、説明できるのか、そこは問いたいところです。 そして軍事クーデターを起こしながら公文書偽造つまり偽物の討幕令をつくり自らを官軍と偽った薩長連合は目の上の瘤であった会津、そして共に立ち上がった奥羽越列藩同盟を朝敵とします。新政府は徹底してこれを弾圧、人間のやることとは思えない迫害を加えます。 いやいや軍事クーデターだったんだ、国外勢力からの資金提供も受けたんだ、武器も供給された、それが悪いのか、と開き直るならまだわかりやすいのです。なぜ堂々とあれは軍事クーデターだったんだ、と認めないのでしょうか。

 

歴史小説に登場する英雄、幕末の志士たちは、固定収入もない職を捨てた浪人が中心で一部農民と徒党を組み全国に情報網を巡らし、海外に留学や視察を行い、高価な外国製武器を揃え、圧倒的な軍事力を誇る徳川軍に一方的な勝利を収めたことになっています。

それはないでしょう。 無理というものです。 当然、背後に巨大なパワーが動いています。

 

大河ドラマ等で流布される明治維新のイメージ。吉田松陰先生の松下村塾で学問を学んだ長州の下級武士たちが外国の脅威から国を救う志を抱き、圧倒的に強大ながら古い体質から脱却しない徳川家を倒し、更に古い時代にしがみつく会津を征圧し日本を統一、あっという間に富国強兵を成し遂げ、外国勢力の植民地になることを防いだ。あるいは土佐藩を脱藩した稀代の英雄坂本龍馬が互いに意地を張りあう薩長にかけ合い、同盟を結ばせ、長州が外国製の武器を購入できるように取り計らった。 こうした話は誰もがどこかで聞いたことがあると思うのですが、個々の事実は歴史的事実を引用していても、ストーリーの展開としては「あくまでも小説」です。

 

「竜馬はいく」など「空想歴史小説」の中で描かれたイメージは歴史的事実をちりばめながら物語としては真逆なほどひっくり返してあります。流石に作者も本名「坂本龍馬」ではなく一文字変えて「竜馬」としており、余りにも事実とイメージが異なることには「ご容赦ください」とお詫びのコメントもしておられます。まあ、小説なのですから、どう書こうと作家の自由なのですが結果的に大きな誤解を生んでいます。

 

 

明治維新の歴史小説に登場する様々な言葉、まず明治維新という言葉にはじまり、藩とか幕府、朝廷、といったものは実在はするのですが、当時の呼び方とは異なります。ちなみに鎖国令は実在しません。坂本龍馬は土佐藩を脱藩したのではなく、最初から島津家に雇われていたのですが、そもそも当時は藩ではなく、山内家とか島津家といったファミリー集団があり、その家臣団がおり、ファミリーが領有権をもつ領地、領民がいました。これを地名に藩をつける呼び方に変え、更に都道府県に変える廃藩置県を行いましたが、江戸時代には藩はなかったのです。明治維新は御一新と呼ばれていました。こういうことを細かく配慮すると書きにくくなるのですが、それだけ歴史は曲げられているということです。実は日本語まで変えられてしまったのです。 明治維新の前と後では日本語の発音がまるで違っています。円はJ.YEN と書きますが、実際に当時までは「いぃぇん」という発音でした。

ここは適宜、流れの中で棚に上げるなり、表現を選ばせて戴きます。

 

 

列強諸国がアフリカ、アジア、北中米の諸民族、文化、国などに何をしたかは教科書にも少し載っています。民族絶滅や、歴史から国や文化の名前まで消してしまうなど、(消えたので消えたこともわかりません。たとえば古代マリ王国という偉大な文明が存在したことをどれだけの人が覚えているでしょうか) かなりえげつないわけですが、阿片戦争で清を籠絡した次の標的が日本です。無事ですむわけありません。日本が一部を除いて軍事占領されず、直接植民地にされなかったのは各国の事情があったからです。米国は南北戦争であまりに忙しく日本に侵攻する余裕はありません。また世界大戦と言う規模のクリミア戦争で数百万の将兵が動員されており、ロシア、フランスは東アジアに廻す兵力がありません。オランダはインドシナ植民地で圧政を行っており、抵抗運動を武力で排除するのに躍起です。英国だけがクリミア戦争を戦いながらも東洋艦隊を動員していましたが、植民地を広げる戦費が国費負担で、利権が東インド会社という構図に議会が紛糾、これ以上国費の浪費を続けると国家財政がもたないと、超低予算による日本侵略、つまり少人数の特殊工作員による日本乗っ取り作戦を遂行することになります。パークス公使や諜報員アーネスト・サトー、これに阿片戦争の利権で巨大資本となったジャーディンマセソン商会とその代理人トーマス・グラバー等がオランダ人フルベッキ等と共に、この国のどこをつつけば体制がひっくりかえるか徹底検証し、新たな権力を握るグループを国外からコントロールしながら間接的な植民地支配を目論みます。

 

明治維新は、外国勢力の動き、最大勢力である徳川家を倒す国内勢力の動き、新政府が何をしたか、に大きく分かれます。明治維新そのものの山場は軍事クーデター「鳥羽伏見の戦い」です。歴史小説では大政奉還によって幕府が幕を閉じ、天皇を中心とする体制へ平和裏に移行したとなっています。実際、徳川家から禁裏に対して確かに政権一括委任権の返上が奏上されたので、正に大政奉還が行われたのですが、直後に外交権を皮切りに部分的な政権再委任が次々に公布され、政治は徳川家が執り行う体制に戻っていきます。大政奉還の形骸化です。 明治維新は、鳥羽伏見の戦いに端を発する戊辰戦争という内戦によって、武力による政権奪取が行われたものです。 大きな謎は圧倒的な軍事力をもつ徳川軍がなぜあっさり敗れたか、です。

 

 

「一発逆転サヨナラ満塁弾」将軍様仰天の敵前逃亡

 

大政奉還後も政権担当を徳川家が担うことで何も変わらない状況が続きました。そこで西郷隆盛の弟を首謀者の一人とする強盗団が江戸市中で暴れます。数百人の暴徒が乱暴狼藉の限りを尽くし、大店(大きな商店)などを次々に襲い、盗み、強姦、殺人、放火などやり放題です。維新の志士といいますが、実際の「業務」の多くがこうした無差別テロだったのです。激高した江戸留守居役諸家、何せ将軍様は将軍に就任して一度も江戸城へ登城したことなくずっと京や大阪にいましたので留守の警備を命じられていた諸家の軍勢が江戸の街を警護していたのですが、彼らが島津家江戸屋敷を焼き打ちします。暴徒が島津家の指図で動くことはわかっていた上、島津家江戸屋敷に逃げ込むのでここを潰さないと取締りにならないからです。 京や大阪も江戸での事件に俄かに緊張感が高まりますが、先に手を出したのは徳川軍です。第15代将軍慶喜公が島津軍の陣営に対する攻撃を命じます。こうして天下分け目でもあり、日本の半分を戦場にする戊辰戦争の緒戦ともなる鳥羽伏見の戦いの幕が切られました。この将軍様、決して腰抜けなどではありません。政治手腕も辣腕で、列強との交渉も自分でやります。度胸もあり、自ら抜刀して長州軍と白兵戦を戦ったこともあります。戦国時代を別にすれば、なかなかいなかったタイプの行動的な将軍様をリーダーに士気旺盛な徳川軍が大阪城に集結、そこで将軍様が「一兵たりともこの城を退くでない」と檄を飛ばします。その舌の先も乾かぬ夜、列強公使と密談し、乗船許可書を発行してもらって米軍艦艇に乗り込み、さらに咸臨丸に移ってそのまま江戸城へ逃げ帰ります。この際、供回りはわずかですが、松平容保ら、会津の重鎮らも同伴させます。京都守護職であった会津松平容保は畿内有事の際の軍事権ももっており、将軍様が逃亡となれば松平容保が自動的に指揮を執ることになります。念押しで、容保の弟で京都守護職の配下になる京都所司代に任ぜられていた桑名松平定敬も同行させられます。新撰組や見廻り組といった実戦部隊は京都守護職の直属です。それまでの実績からいっても命を懸けて任務を全うするであろう松平兄弟が徳川軍の指揮を執っては全面戦争となり、寡兵の薩長軍が重囲の中で蒸発するのは目に見えています。将軍様に余について参れ、と言われて行かない訳にもいかない松平兄弟が去った大阪城には権限をもつ指揮官がいません。当時の大阪湾には兵庫港開港を要求する英東洋艦隊などがびっしり並び、砲口を大阪城に向けていました。咸臨丸の艦長榎本武揚は大阪城に居ましたが咸臨丸が将軍様の命令で逃げてしまいました。 外からの威圧下、指揮官が次席や次々席の指揮官らと突然、将兵に黙って米国艦艇で敵前逃亡という「いったい何がどうなっているわけ???」状態となり、徳川軍は総崩れとなり軍事クーデターは成功します。

 

 

公文書偽造による討幕令、大嘘から始まった明治維新

 

禁裏の重鎮、岩倉具視は偽の討幕令を偽造、さらに偽物の「錦の御旗」を、ま、こんなもんだろ、と適当に作らせて、「吾は官軍、幕府は朝敵なるぞ」と心理作戦も仕掛けます。明治維新は大嘘から始まったのです。

 

 

京の都、大阪城、江戸城を無償で敵に渡した将軍様

 

江戸へ戻った将軍様は勝海舟に江戸城明け渡しを命じます。結局、この将軍様、在位わずか1年。その間に一気に徳川家は崩壊します。京都守護職に自らが指揮する大阪城からの敵前逃亡に同行させ、今度は江戸城も空にしろ、です。軍事的にも政治的にも経済的にも重要な京、大阪、江戸を自ら放棄したのです。これではどれほど徳川軍が圧倒的な軍事力をもっていても勝てるわけありません。困ったのは勝海舟です。 圧倒的な軍事力を維持しながら全面無条件降伏ですから、いつ反乱や暗殺を招くかわかったものではありません。命懸けで江戸を抜け出し、仲間の西郷隆盛に平穏に徳川が負ける算段を詰めるため密談します。そこへ榎本武揚が檄を飛ばし、これより東海に討って出て薩長の兵站を切る、志ある者は吾と共に参れ、と徳川艦隊への集結を呼び掛けます。血気盛んな将兵は海軍陸戦隊として艦隊に乗り込み勇躍出撃、最も血気盛んな抵抗勢力が江戸を離れ、その間に江戸はあっけなく開城され、一応、艦隊の東海への出撃もあったにはあったのですが、一路北上した榎本艦隊は最後は五稜郭にて志ある者の大半が討死します。

 

 

討幕の英雄三傑、慶喜将軍、勝海舟、榎本武揚のその後

 

徳川軍崩壊に大きな功績のあった第15代最後の将軍慶喜公は、元幕臣が生活にも困窮する凄惨を舐める中、豪邸で悠々自適の暮らしを送り、やがて明治政府の要職にも就き、明治時代を生き残り、大正二年に没します。

 

勝海舟も明治政府に厚遇され、要職も歴任し、恵まれた余生を送り明治32年に没します。

 

榎本武揚は自分が連れ出した志ある者どもが尽く戦士を遂げる中、自身は降伏し一応、しばらく牢獄暮らしとなります。その後は大出世を遂げます。幕末の欧州留学時代には自ら軍艦の購入交渉をまとめたり、ドイツ最大の財閥クルップの総裁とも面談、バリバリのエリートだった訳ですが、明治政府でも外交交渉をはじめ、各分野で重責を担い、多くの省の大臣職を歴任、明治41年に没します。

 

薩長土肥側の志士と言われた人々の大半が明治維新後数年以内に非業の死を遂げたのとは対照的です。

 

 

徳川家乗っ取り作戦、討幕派のリーダーを徳川将軍に

 

徳川家を倒す作戦の要は討幕派のリーダーを将軍にすることでした。そもそも慶喜公は一橋家に養子入りしたとはいえ、水戸徳川の出自です。家康公の血を引き将軍継承権をもつわけですが、水戸徳川は桜田門外の変を起こしたばかりでなく、先鋭な討幕派であり、政権は武力で倒すもの政敵は殺せばいい、という過激な思想を持ちます。水戸学派の親派は全国に散り、彼らが討幕のネットワークを構築します。吉田松陰は水戸学派の言ってみれば下っ端ですが、このネットワークには大物が加担しています。禁裏にあって大きな影響力をもつ岩倉具視、討幕令を偽造した張本人です。他、島津斉彬、山内容堂、松平春嶽らです。松平春嶽は福井松平家当主ですが、薩長土肥の武装集団よりも重要な役割を果たします。新生明治政府の財務を握る重鎮です。明治維新は福井の金で実現した、と言ってもいいほどです。明治政府のお札が越前和紙でつくられたのは偶然ではありません。福井松平家が地元の名産品でお札をつくったのです。松平春嶽は京都守護代の人選の際に執拗に会津松平容保を推しました。天保の大飢饉により奥羽越の諸家は大変な危機にありました。江戸の米市場を押さえる有力な勢力であった仙台も疲弊し、明治維新に対しておそらく最後まで徹底抗戦するであろう有力諸家が困窮しているところへ莫大な出費を要する京都守護代の任を押し付けたのです。会津は財政破綻を覚悟で京の守護に乗りこんだのでした。時々、どこかでテロ事件を起こす薩長側の方が、常に大兵力を動員して各地を警備する守護代より遥かに低コストでオペレーション可能でした。松平春嶽は「松平」家ですから徳川の縁者であり、将軍継承問題にも干渉します。島津家は関ヶ原で家康本陣に突撃し、戦後の交渉でも一歩たりとも領土を譲らなかった徳川最大の敵でした。ところが島津家は徹底的に訓練した子女を公家や諸大名と縁組させ血縁ネットワークを広げます。公家から正室をもらう将軍家と島津家は只ならぬ血縁の絆で結ばれていきました。病弱な子が続く将軍家を後目に健康爛漫、ポコポコと子を産み続け教養も高い島津家血縁ネットワーク軍団は評判よろしく、ついには将軍様正室に篤姫を送り込み、大奥の権力の頂点を握ります。将軍家継承問題に干渉するという半端なレベルではありません。最高レベルの実権を握ったのです。篤姫は島津斉彬の実の娘との噂もあるそうですが、超エリート諜報員として同期の小松帯刀らと共にあらゆる訓練を受け、非常に有能だったとされています。公家に嫁入りし、宮中での術数に長ける諜報員、幾島が付人として大奥に入り、江戸市中には連絡員として諜報員西郷隆盛が赴任します。彼らを束ねる大久保利通ら、わずか数名の工作部隊だけでも徳川家中枢への強い影響力を持つに至りました。

 

 

密貿易で荒く稼ぐ島津家と使用人坂本龍馬

 

島津家は税金のかかる米よりサツマイモを領民に食べさせ、米で測る石高にしては強大な兵力を動員できましたが、古くから外国勢力との密貿易によって財政を支えていました。当然、非合法取引ですから実務は土佐の荒くれな海男にやらせます。その中で商才を顕したのが坂本龍馬です。彼が薩長を仲直りさせたのではなく、元々、島津家の武器密輸の実務を担当する雇われ人だったのです。毛利に売ってこい、となれば毛利に売るのが仕事です。歴史小説では長州人が先陣を切り、当初、幕府側にいるように見えた薩摩が討幕へ方針を変えていくように描かれますが、歴史上は逆です。薩摩は最初から徹頭徹尾、討幕派の中心であり、訳あって長州を巻き込む必要があったのです。日本の事実上の植民地化を狙う英国とも早くから交渉がありました。土佐山内容堂は、領内のいってみれば不良のようにも見える徒党が島津家の密貿易業務に就くのを取り締まらず、むしろ家臣として登用するようになります。また長崎出島に近い肥前鍋島家も外国商人とのパイプが太く薩土肥連合の絆は早くから結ばれていきました。長州を巻き込むには時間と手間がかかります。そこが逆に歴史小説のネタになるドラマになっていきます。

 

ちなみに坂本龍馬はグラバー商会の資金と船を預かり海運業を営みます。積荷は武器などです。要するに密貿易の使用人から武器商人に昇格したのです。帳簿係りが岩崎弥太郎。龍馬暗殺後、後を次いだ岩崎弥太郎は大阪に九十九商会(つくも)を設立します。同じく資金と船はグラバー商会から提供され廻船業を営みます。これが後に三菱となります。グラバーは家康指南役ヤン・ヨースティン邸宅跡、名前を縮めて八重洲ビル(場所は丸の内)から毎朝、馬車にのって三菱各社を視察していました。私が就職した時、八重洲ビルは三菱商事本店、私がいた三菱商事ビル別館は、旧三菱商事(九十九商会を継承する三菱。戦後の三菱は別法人で、新旧二つの三菱が存在していました。)の本店でした。

 

 

明治維新の金の出どころ~ 福井松平家

 

鎖国令というのは出たことはないのですが、貿易制限は実在しました。日米修好通商条約の発効により貿易自由化の方向へ進みだしたころ、素早く稼いだのが福井松平家です。トーマスグラバーの入れ知恵により、特産品である絹織物の量産体制を整備します。作りさえすればグラバー商会が売りさばくのですが、このやり方は今日でも続いています。宇宙船や戦闘機をつくるのにカーボンファイバーが使われますが、あれを織っているのが福井の普段、着物の生地をつくっている業者です。但しつくるだけで流通を押さえられています。所謂、商社金融方式で、原材料仕入れも製品売掛債権の回収も全て資金繰りの面倒をみてもらう代わりに、自社営業を禁じられています。 さて、越前和紙で藩札をつくり、桑を育てる農家や養蚕業者、絹を扱う職人や織り機をつくる職人など、各事業を整備するのに必要な資金は文字通り紙切れに与えた信用で築きます。こうして他家に先駆け事実上の独占貿易の利を得た福井松平家は薩長など他家を圧倒する財力をもつに至り、討幕資金の提供者となったばかりでなく、新政府の貨幣もつくり財政を支えます。 特産品の絹製品の輸出により外貨であるポンドを手にしましたので、グラバー商会から英国製の武器を購入する決済に使うことができます。 一方、新政府が越前和紙でこれがお金なんですよ、と勝手に紙切れに信用を与えることで、それを信用した人々の間で貨幣として流通することで国内の財政を成立させることはできますが、新政府軍が戊辰戦争のために大量購入した元込め式新型ライフル・エンフィールド銃の代金はやはりポンドで用意しないといけません。越前和紙を印刷しただけでは売ってくれません。この外貨資金の提供者が明治維新の最大のスポンサーであり黒幕ということになります。

 

 

明治維新の大まかな流れ

 

主な登場人物がある程度そろったところで、全体の流れを押さえていきます。

 

鳥羽伏見の戦いが明治元年とされます。

黒船来航はその15年前です。

阿片戦争は更にその13年前に始まり2年で勝負がついています。

 

黒船来航を機に、水戸徳川によって海防の建白書が奏上されます。海の守りを固めましょうという当たり前の話ですが、この建白書が討幕プラン実行開始の号砲となります。

 

(黒船  元年) 世界大戦クリミア戦争勃発 露仏は総動員で日本どころではなし

(黒船 +2年) 長崎海軍伝習所開設 討幕派集結、卒業生が各地でテロ活動を展開

(黒船 +5年) 安政の大獄はじまる 討幕派へ大打撃

(黒船 +6年) 安政の大獄の一環として討幕派拠点、長崎海軍伝習所閉鎖

(黒船 +7年) 桜田門外の変 討幕派慶喜を将軍に推す勢力が反対派をほぼ排除

(黒船+10年) 薩英戦争、島津家領内が英軍をバックに討幕戦へと意志統一

           幕府が賠償金建替、予算を得た英東洋艦隊が日本をうろつく

(黒船+11年) 神戸海軍操練所開設 福井松平家大規模投資 討幕派の一大拠点

     卒業生らが禁門の変に参加、翌年操練所閉鎖、責任者の勝海舟罷免

     高杉晋作ら奇兵隊、外国船砲撃、馬関戦争により英軍が長州領一部占領

     グラバーが英国留学させた伊藤博文・井上門多を英軍が長州へ送る

     第一次長州征伐

(黒船+13年) 第二次長州征伐 14代将軍・攘夷派の天皇急死 翌年解兵

(黒船+15年) 第15代将軍慶喜、島津軍陣地へ攻撃命令、鳥羽伏見の戦い勃発

 

 

(黒船+2年) 長崎海軍伝習所に討幕派集結

 

長崎海軍伝習所には、勝海舟、榎本武揚をはじめ、全国から討幕派のエリートが集まります。長崎の地には坂本龍馬、高杉晋作、伊藤博文、トーマス・グラバーら、明治維新の役者たちが一同に会します。討幕派が集まったという一面と、集まってから討幕派に加わったという一面もあり、この辺りは微妙です。結果的には集まった人々が討幕派になっています。伝習所といっても遠洋航海、海戦、造船から砲や火薬の製造、医学に航海術、海軍をつくるのに必要なあらゆることを実地でやるのですが、遠隔地との暗号による交信など、討幕活動にそのまま応用できるもの一切を含んでいます。教官はオランダが誇る重鎮がズラリ数十人。総力を挙げて最高レベルの人材を投入してきました。インドシナでは現地食糧を作らさずに自分たちの貿易の稼ぎになる工芸作物ばかりを作らせ飢餓輸出による餓死者が続出しても放置、反乱が起これば武力で鎮圧するという人々が日本人には親切に海軍の作り方を教えてくれる、わけはありません。 そんな甘い連中ではありません。 これは絶対をつけても。

国を乗っ取るネットワークをつくったのです。

 

彼らは流石に永年、日本との交易を通して諜報活動に長じただけあって、この国に脈々と流れる政権交代の震源を見抜いていました。どこを叩けば小さなエネルギーだけでも大きな地震が起こるのか。 将軍家周辺、天皇家や公家、各大名など表向き対立するかどうかにかかわらず、各々の勢力に属する特定の人々を横糸で束ねる鍵を握ったのです。南朝を正統とする水戸学派を揺り動かせば、各組織に潜む南朝派を束ねることができます。そこへ資金と武器を提供、諜報支援や艦隊による威嚇などを組み合わせれば、この国を乗っ取らせる手先となる結社を編成できる、その要員を集めて徹底した工作活動の訓練を実施します。

 

肥前佐賀の鍋島家も長崎海軍伝習所に人材を送り込みますが、わざわざ同様の施設を鍋島家領内にもつくり徳川海軍と拮抗する海上戦力を保持するに至ります。 この教官の中にオランダ人フルベッキがいます。この人物こそ、討幕派を束ねた張本人とみられています。東京駅がなぜアムステルダム駅のコピーなのか。なぜ天子南面するこの国において、国家元首たる天皇が外国の要人を歓迎する際に、日出づる東の方、アムステルダム駅へ、つまり「上(かみ)」へ向かって僥倖するのか、なぜ途中にトーマスグラバーが毎日馬車で視察する丸の内の大企業群の真ん中を通るのか。 フルベッキが明治維新前に直接指導した工作員は3分の2が鍋島家の家臣ですが、明治維新成立後ほどなく佐賀の乱というおそらくでっちあげの反乱の疑いにより大半が逮捕され弁護機会なき密室即刻裁判により直ちに死刑が執行されました。そのため、歴史小説としての明治維新には薩長土肥と言う割には肥前の人が登場しません。鍋島海軍の新鋭艦が活躍した時、日本では唯一の榴弾砲であった鍋島家のアームストロング砲が江戸に籠る徳川方の勢力を蹴散らしたことなど、目につくエピソードの時だけ肥前の名前が登場します。 明治維新に参加した人物の大半は、維新成立後に速やかに粛清され、生き延びたのはごく僅かです。

 

長崎海軍伝習所開設後1年、有能な人材の一部は欧州へ向かい、一部は全国に散り各地でテロ活動を活発化させます。最初は残虐なテロ行為で世相を騒然とさせる、ISやタリバンとやり方は同じです。

 

 

(黒船 +5年) 安政の大獄はじまる

島津斉彬は5000の兵をもって上洛、一気に状況を動かそうとしますが、急死します。斉彬の死を合図に大老井伊直弼は討幕派連合に鉄槌を加えます。水戸徳川斉昭、一橋慶喜、福井松平春嶽、土佐山内容堂、ら討幕諸家の当主に蟄居を命じ、討幕連合のまとめ役である橋本佐内を最高レベルの罪人として極刑に処します。佐内は松平春嶽の懐刀でした。100人以上が処罰を受けた安政の大獄は当時の重要人物を軒並み、処刑、投獄、蟄居とした激震でした。

この当時、長州は目立った動きをしていません。長州を無用に刺激しないため、吉田松陰への処罰は軽くなるはずでした。それほどの重要人物とは見られていませんでした。ところが、白洲の場で幕府重臣へのテロ計画をべらべらと喋ってしまい、これは捨て置けぬと極刑に処します。歴史小説では長州や水戸を中心に新しい時代を作ろうとする志士の活躍があり、これを古い体制を守ろうとする井伊直弼が弾圧したというイメージで語られますが、実際は逆です。長州では領内でさほど影響力のない一部勢力が騒いでいただけ。力をもつ討幕派は島津、福井松平、水戸徳川、土佐山内、肥前鍋島、そして禁裏の岩倉具視らです。討幕派は尊王攘夷を叫ぶ王政復古派であり、古い伝統を前面に押し出しています。尊王ですので、幕府中心の体制にとっては反動勢力となります。一方の井伊直弼は開国派です。独断で日米修好通商条約を締結しました。当時の米国には日本侵略の余裕はなく、基幹産業であった捕鯨産業のためにクジラが回遊するルートに近い伊豆下田を捕鯨船の補給基地として開港を迫ったものという事情を見抜いていました。

 

安政の大獄の最大の争点は将軍お世継ぎ問題です。討幕派の水戸から慶喜を将軍に据えようとする王政復古派と、普通に徳川家の存続を図る紀州家から徳川将軍を出そうとする開国派の井伊直弼の戦いです。

 

 

(黒船 +6年) 討幕派拠点、長崎海軍伝習所閉鎖 

 

徳川海軍創設のために創立した海軍伝習所が何のことはない討幕派の拠点となり、オランダの工作員が指導をしている、井伊直弼は伝習所閉鎖を命じます。当時、阿片戦争で猛威を振るい、日本にも艦隊を派遣し陸戦隊で上陸戦をかけてくる可能性があるのは英国だけです。クリミア戦争で総動員体制の露仏はそんな戦力をさけません。そこで徳川海軍および新設された騎兵銃隊を主力とする陸軍の指南役としてフランス軍人と顧問契約を締結します。

 

 

(黒船 +7年) 桜田門外の変 

 

水戸浪士を中心に島津家浪士を加えた一団が井伊直弼を暗殺、ここに徳川本家において討幕派の慶喜の将軍就任を拒める勢力は消滅します。島津家や福井松平家の当主の方が、家康公の血を引く誰かと血縁があり、徳川本家家臣団よりよほど影響力があるわけです。ましてや大奥のトップに篤姫を送り込んだ島津家は圧倒的な影響力を持ちます。15代将軍慶喜誕生と徳川崩壊は時間の問題となりました。後は、14代将軍、さらに将軍と気脈を通じる攘夷派の天皇がこの世から消え、次期天皇候補の血統を抱える長州を討幕派に巻き込むことです。 もう一つやるべきことは、英東洋艦隊を招き入れ、その活動資金を幕府から拠出させることです。そのため生麦事件が勃発します。

 

 

(黒船+10年) 真打ち英東洋艦隊登場し薩英戦争、島津家領内の意志統一

 

攘夷というから英国人を切り捨てたんだ、と。薩摩示現流の使い手により生麦事件が起こります。待ってました、と英東洋艦隊が大挙押し寄せ、島津家領内に猛烈な艦砲射撃を加えます。神風吹く台風の中、陸上砲台から砲撃する島津側も善戦はしますが、街の一部を焼かれた島津家領民は英艦隊の圧倒的な火力の威力を見せ付けられます。それまでは殿様と一部エリート諜報部員や密輸部隊が暗躍していただけの島津家は大規模な兵力を動員したわけではありません。薩英戦争によって上から下まで、英国艦隊の軍事力に対する畏怖の念から敵にするよりバックにつけるという方針が受け容れられ、総動員による討幕戦の方向へ領内の意志統一が浸透します。そして賠償金は徳川家に払わせます。これで英艦隊は俄かに日本近海での軍事行動を活発化させます。徳川家は立替えた、という建前でしたが島津家は徳川家への返済を踏み倒します。徳川家も英艦隊に払う賠償金となるとポンドで用意する必要があり、これは英国の銀行から借り入れます。既に徳川家も英国戦略の手の平の上を転がっていたのです。

 

 

(黒船+11年) 神戸海軍操練所開設 福井松平家大規模投資 討幕派の一大拠点

 

英東洋艦隊は兵庫港の開港を要求し、大阪湾に居座ります。当時、兵庫に大きな港はありません。英東洋艦隊の目的は徳川の大阪城と、砲弾は届きませんが陸戦隊が2~3日で突入できる距離にある京の都にいる攘夷派の天皇への威嚇です。 そこへ勝海舟が動き、神戸海軍操練所を開設させ、徳川家からの投資以上に、福井松平家からの投資を招き入れます。グラバーとの絹の貿易で儲けた資金を次は英国が開港を要求する港を作るために投じたのです。周辺施設への莫大な投資が続き、今日の国際貿易港神戸の礎が築かれます。操練所には勝海舟の他、坂本龍馬も集い、やはり全国から討幕派の活動家が集結します。 長崎に続いてまたか、と徳川家は勝海舟を問い詰めますが、各地のテロ活動が一気に燃え上がり、次々に事件が起こり、操練所は翌年には閉鎖されます。

 

 

卒業生らが禁門の変に参加、翌年操練所閉鎖、責任者の勝海舟罷免

 

操練所ができてほどなく禁門の変(蛤御紋の変)が勃発、これに操練所練習生が参加したため大問題になります。そもそも御所に砲弾を撃ち込んだのですから、長州に対する征伐論が沸き起こります。

 

 

高杉晋作ら奇兵隊、外国船砲撃、馬韓戦争により英軍が長州領一部占領

 

松下村塾の塾生の多くが討死した禁門の変とは別働隊として行動した高杉晋作ら奇兵隊は、天皇も幕府も攘夷って言うんだから、と外国船を砲撃します。前年に活動資金を得た英東洋艦隊を大挙呼び寄せることになります。直ちに馬関戦争となり長州軍は惨敗、英東洋艦隊は陸戦隊を上陸させ一部領土を占領、砲台を破壊、資産の没収、更に婦女子への暴行など彼らのやり方、「恐怖を植え付け、言うことを聞かせる」基本行動を取ります。

 

 

グラバーが英国留学させた伊藤博文・井上門多を英軍が長州へ送る

 

長州は窮地に陥ったというより当然そうなるべくそうなったのですが。英国側は艦隊を送り込むタイミングに合わせて伊藤博文と井上門多を長州に送り込みます。元々、グラバーがロンドンへ留学させていたものでした。もちろん、留学資金はポンドでしっかりと払わせます。相手をとことん利用して国を乗っ取る手先として使うためにでも費用は相手に払わせる、これが英国紳士の流儀です。恰好のタイミングで帰国した(英国が送り込んだのですが)両名を長州では通訳として起用、彼らは英国が高杉晋作を出せと言ってると伝えます。高杉晋作はただ一方的に英艦隊側の要求を受け入れたと記録にありますが、歴史小説では長州を救った英雄として描かれています。賠償金は徳川家に払わせる、この土産を手に高杉晋作ら奇兵隊は防長二州領内での影響力を増す努力を尽くしますが、そう簡単にはいきません。最初から殿様が討幕派の当事者だった薩土肥や福井松平家と異なり、長州領内の意思統一には最も時間と手間がかかります。 第一次長州征伐では一部重臣の切腹となりますが、討幕派にとって反対派一掃までにはまだまだ戦いが続きます。ここはかなりのドラマ性がある物語となりますので、歴史小説の恰好のネタになります。歴史上は先をいく島津などが、はよこいや、と長州の準備が整うのを待っているのですが、歴史小説では長州の少数勢力だった奇兵隊らが領内の権力を掌握するプロセスを中心に描き、そこへ今ひとつ腰が重い薩摩を巻き込むようなストーリーになっています。そのため、薩長をつないだんだ、ということで武器商人坂本「龍馬」を英雄「竜馬」として美化する必要があったのです。

 

 

(黒船+13年) 第二次長州征伐 14代将軍・攘夷派の天皇急死 翌年解兵

 

奇兵隊による領内統一が進み、外国製の武器を坂本龍馬が業務代行するグラバー商会から購入した長州の寄せ集め軍団はかなりの戦闘力をもつレベルに成長しました。そこへ第二次長州征伐が始まりますが、ここで大活躍する長州新興勢力は完全に領内の実権を握ります。島津家は静観。徳川家が軍事力を見せつけ、長州を圧倒するはずが勝海舟率いる海軍は大島に居座り、全く動きません。対岸の高杉晋作率いる第二奇兵隊もまるで動きません。両軍が協力して田布施町に匿う南朝直系の貴種、つまり次期天皇候補を護っていたという説があります。毛利家は代々、足利将軍や三条家など、時勢によっては天下人となる血筋でありながら反主流派に貶められ、都落ちする貴種を匿う習性があります。田布施町は代々、毛利家に仕える忍者の家系である伊藤家の本拠地があり、暗殺を本職とする博文が初代総理大臣に就任しています。自身が暗殺された際のヒットマンが残した罪状告発の条、第一は「自ら天皇を暗殺した罪」とあります。田布施町出身の総理大臣は他にも二人。岸伸介と佐藤栄作です。日本を代表する3人の首相を輩出した小さな町。 この町の出身ではありませんが、岸伸介と佐藤栄作の両氏を大叔父とするのが現職の総理大臣です。

 

第二次長州征伐は討幕派の罠であり、乗ってはならない、とする反対意見を押し切り、大阪まで出陣した第14代将軍本人と将軍と気脈を通じる時の天皇は相次いで謎の変死を遂げ、ここにほぼ完全に討幕将軍慶喜誕生の期が熟します。なお、この時期の伊藤博文は天皇を暗殺できるような位置にはいません。結局、長州征伐は討幕派統一に力を貸しただけに終わり、翌年、解兵となります。

 

 

(黒船+15年) 第15代将軍慶喜、島津軍陣地へ攻撃命令、鳥羽伏見の戦い勃発

 

主だった敵が消え失せた状況で慶喜が将軍に就任するや1年ほどの間に徳川解体が一気に進みます。禿鷹ファンドの辣腕ファンドマネージャーの如く、徳川の主要資産を次々に新政府軍に譲渡します。

 

 

明治政府の正体

 

新政府誕生後、政権の中枢を握る要人の大半が岩倉具視使節団に随行し、米英に長期滞在し、みっちりと「教育」を受けます。フルベッキは数百人のエリートを自身が卒業した米国のビジネススクールに送り込み、日本の官僚の人材を揃えます。南朝復興を旗印に大同団結した討幕結社だったはずが、当の天皇は国会での「南朝が正統」発言など、本人が南朝と考えなければ辻褄が合わない言動を繰り返しますが、表向きは北朝の天皇ということになっています。真相を知るはずの長崎海軍伝習所時代からの同士はほぼ互いに暗殺合戦で倒れ、生きのこった者はわずかです。 ISやタリバンも真っ青の残虐なテロ行為を繰り返していた志士たちは新政府の要人となるや日本の伝統の破壊に躍起になります。廃仏毀釈令をまともに実行していれば法隆寺や四天王どころか、潰される寸前だった姫路城を始め、日本の伝統的な建造物は一つも残らなかったでしょう。日本の民衆は新政府に猛反発し、多くの伝統遺産は守られました。廃仏毀釈もまた、ISやタリバンがシリアの数千年の歴史を誇るパルミラ神殿や洞窟の大仏を破壊したのと同じ行動原理に基くものです。 日本語も徹底して改造されます。 卑弥呼は「ふぃヴぃぃくぅぁぉ」というような発音だったのですが、これが「ヒミコ」に変えられます。 日本人の精神を骨抜きにするため、言葉と音、歴史の改竄が断行され、男女の自由な交わりにも恥ずかしいものとの決めつけが行われ混浴にも規制がかかります。 多民族国家日本における少数民族は無きものとされ単一民族国家ということにされ、今日アイヌ民族のみが国会でも存在を認められた少数民族ですが、それ以外、サンカ、隼人ら、数々の民族は歴史から消されたままです。 要するに文化大革命が断行されたのです。

 

列強は直接支配による植民地化のかわりに間接支配の手法を取りましたが、まず器用な日本人には高品質の絹製品など、世界市場で高く売って儲かる特産品の量産を要求します。過酷な労働を嫌う一般民衆から労働者のなり手がでてこず、権力階層が列強のご意向に応えるべく自分たちの娘を指し出します。富岡製紙工場の女工哀史はこうして生まれました。表面的には植民地化を逃れたようにみえても、植民地に課される過酷な重労働を強いられ、こうして生産された特産品の交易により英国商人が莫大な富を得たのです。

 

日本は短期間で富国強兵を実現した。それはそうですし、日本人は有能であったことは事実であり、何といっても超大国ロシアと戦い、当時の戦争の定義からすれば賠償金を取れなかったので「引き分け」なのですが、戦闘には次々に勝利を収めました。 旅順港陥落、ロシア太平洋艦隊全滅、パルチック・黒海連合艦隊全滅、奉天大会戦での大勝利等、アジア人が世界第一位の陸軍国と真っ向正面勝負の大会戦で勝ち、要塞戦でも勝ち、世界第二位の海軍と艦隊決戦で圧倒的勝利を得たことは、全アジア・アフリカの人々にとっては狂喜乱舞の大フィーバーとなったとされています。 と言っても内情は。 大国ロシアと闘う戦費22億円(国家予算は8800万円)はウォール街の大物ヤコブ・シッフに全額引き受けてもらいます。高橋是清がロンドンへ向かい、ヨーロッパの大資本家の米国での代理店であるクーンローエブ商会の代表者シッフと会い、一発で戦費を賄ってもらいました。この資金で英国製の兵器などを購入するのですが、バルチック艦隊を撃破した連合艦隊の艦艇はほぼ英国製です。何のことはない、戦争債を引き受けて払った金は、自分たちが株主であるヴィッカース社などが製造する兵器代金としてぐるぐる回っているのです。 結局、列強の資金で列強の兵器を買って、それで日本人が血を流して戦争をやったわけです。日本政府発行の戦争債を引き受けたシッフは他の投資家にも転売します。過半を買ったのがハリマン氏です。鉄道財閥であるハリマン氏は当然、満州鉄道の利権を要求しますが、日本政府が断り、大きな禍根を残し第二次大戦への伏線となります。ハリマン家の支配人、つまり雇われ経営者を代々務めたのがブッシュ家です。親子二代、米国大統領となったブッシュ家です。選挙資金はハリマン家からの寄附、選挙対策委員長もハリマン氏です。ハリマン家は石油財閥と世界初の持ち株会社サザンインプルーブメント社を設立、一夜にして鉄道・石油連合財閥が誕生し、自社石油の輸送費は半額、他社石油の輸送費は倍増とします。この突然の奇襲にライバルは倒れ、世界の石油ビジネスを独占するスタンダードオイルが誕生します。

 

 

米国の御家の事情

 

米国は南北戦争で忙しく、ペリーやハリスも南軍との海戦で有名を馳せた提督です。当時、米国では捕鯨事業が基幹産業となっていました。「油」の主たる供給源だったのです。クジラを片っ端から捕まえては、ぶった切りにしてぐつぐつとお湯で煮て浮いてきた油をすくいます。あとは捨ててしまいます。小笠原群島はクジラの十字路であり、捕鯨船が立ち寄っていました。そのまま放置すると米国領となっているところでした。これは徳川家が奪回します。クジラの回遊ルートに近い伊豆下田の開港を迫ったのは日本占領への序曲というより、基幹産業のために寄港地を確保するのが目的でした。ところが、折しも石油産業が勃興し、更に大豆の搾油による食用油の量産も広がり、捕鯨産業は急速に萎んでいきます。米国にとっては日本進出はとりあえず先延ばしとなります。

 

南北戦争は産業構造の転換によって勃発しました。南部では黒人奴隷を使って綿花を栽培し、これを英国へ輸出し、英国では機械によって綿糸を紡ぎます。勃興してきた北部の五大湖周辺の機械産業が労働力を求めるようになります。当初、劣勢だった北軍は機械力に物を言わせ、最後は南軍を圧倒します。そしてミシシッピ川を利用して南部から黒人奴隷を吸い上げ北部工業地帯へと移住させます。ちなみにエイブラハムリンカーンは、若いころ、ミシシッピ川で輸送船を操船し、荷物や奴隷を運んでいました。 北部工業地帯の興隆に伴い石油産業が大量の燃料を供給します。ところが、黒人奴隷は農業には向いていても、工場労働には余り向いていないという評価になっていきます。農場での作業は必ずしも迅速な作業効率を要求するものではなく、むしろなるべくコストをかけずに季節の変動に合わせて作物が育つのを手助けするというもので、動かしようのない時間に遅れなければいいのです。ひたすら作業効率を求める必要はありません。 むしろ可能な限り自給自足で必要経費を抑え、黒人奴隷自体も交配所で「生産」されていました。都市に住む工場労働者とは生活スタイルも仕事のやり方もかなり異なります。 俄然、精力を伸ばしてきたのがデラノ財閥です。

工場労働向きの中国人苦(クーリー)を大量に北部工業地帯へ送り込みます。その当主ルーズベルトが次の事業展開として中国に大規模な工場群を建て、中国人労働者を駆使して工業生産に当らせ、これがうまくいくなら日本人は不要になるので原子爆弾を大量投入して抹殺する、そうしたプランによって太平洋戦争への仕掛けを始めます。相棒はフィリピン植民地の利権を握るマッカーサー一族の長、ダグラス・マッカーサーです。この将軍も当初は、日本人は原子爆弾数十発を落として抹殺すればいいという意見でした。彼らの先祖はインディオを徹底して研究し、何をやっても精神を失わないという結論に達し、抹殺することを決めました。実際に、おとなしいナバホ族以外はほとんどこの世から消えます。馬がいなかった北米に騎馬隊を持ち込み、圧倒的な機動力でバッファローを虐殺しました。中西部のインディオはバッファローの肉を食べ、乳をのみ、皮や骨、糞までも利用して生活の糧にしていたのでこれを全滅させればインディオも滅ぶという発想です。こういう連中ですから、他の民族は、利用できるなら利用する、できないなら抹殺です。 日本人は精神性は抜群に高いが外来文化に寛容なのでうまく骨抜きにでき、工場労働者として物を作らせればいい、という一派と、いや中国人をつかえばいいというルーズベルト派が対立したまま太平洋戦争へ突入します。日本は明治維新によって植民地化を逃れたのではありません。どういう形で利用するのか結論を先延ばしにされただけです。沖縄戦が終われば、マッカーサーは上海へ侵攻し、中国を植民地化する予定でした。ところが沖縄戦の最中にルーズベルトが急死し、対日戦略も見直され、上海侵攻も延期されます。ルーズベルトは原爆投下の正式な意思決定前に急逝し、突然、重責を担わされた副大統領だったトルーマン大統領は強引に原爆投下の承認をさせられますが、広島、小倉へ向かった爆撃機が、実際には広島、長崎に投下後、3発目以降の投下を明確に拒絶します。 日本はぎりぎりのところで最悪の事態はまぬかれたのです。2発は投下されてしまいましたが。。。

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